カテゴリー別アーカイブ: 「わが町・あべの」森本成毅 著

住吉区播磨町

播磨町や阪南町の造りは、道路が直角に交わり同じ規模の長屋が建ち並ぶ所であったと書きましたが、その中にも、門構えの有る立派な「お屋敷」が散在していました。特に、播磨町には「お屋敷」が結構あり、夏ともなれば樹木の茂った前栽に忍び込んでセミ採りをして遊んだものです。また、住宅ばかりでなく畑なども残っており、トンボやチョウチョなどを採る、屋外での遊び場には事欠かない環境でした。
 ところで、「お屋敷」の中には、表札に氏名だけでなく住所も記してあるお宅がありました。小学校に入った頃、知ったのですが、「住吉区播磨町・・・」と表示した表札があったのです。その事を不思議に思い、母親に尋ねましたら、母親は「昔、播磨町は住吉区だったそうよ。のちに、住吉区が三つに分かれて阿倍野区と東住吉区が出来、その時、播磨町は阿倍野区になったらしいの」と、事も無げに言いました。子供心に、地名は簡単に変わるものなのかと、不思議に思った記憶があります。長じて、史書を繙く中で、住吉区の分区・阿倍野区の設置は1943(昭和18)年4月のことだと知りました。同年11月、私達は兵庫県尼崎市から現住地(播磨町)に転入して来ましたが、分区直後の転入でしたから、母親も分区のことを近所の人達から聞き知って、数年後、小学生になった私の問いにすっと答えてくれたのだろうかと、想像します。
 1956(昭和31)年2月下旬、高校入試の出願手続きに要する『住民票の写し』を交付して貰おうと、阿倍野区役所に一人で行きました。その時が区役所に行った最初です。
 木造2階建てのくすんだ色の建物でした。外は陽光が降り注ぎ早春の気配が充満していましたが、区役所の中はモウモウとしており奥の方がよく見えないほどでした。恐らく、タバコの煙のためか石炭ストーブの煙のせいであっただろうと、推測します。入学しました今宮高等学校には定時制過程も設置されていましたが、そこでは石炭ストーブで暖を取っていましたから、上記のようにストーブの煙を想像したりするのです。即ち、1950年代の大阪では石炭をそのまま燃やして暖房することがかなり在ったいうことでもあります。(因みに、府立高校では1960年代になって、ガスストーブに切り替えていったようです。その際に、全日制過程でも便乗して暖房を始めました。その頃は、私も教職に在りましたからよく覚えています。受益者負担は当然だと、事務職員がガス代の督促状を保護者に送ったので、苦情が殺到し対応に苦慮した記憶も鮮明に残っています。)
 先述した阿倍野区役所について、近所のお年寄りから「あれは元、住吉区役所だった」としばしば聞かされましたが、それは府立阿倍野高等学校の直ぐ南、現在、阪南中公園と呼ばれている小公園の地にありました。やがて、現在の地に移転しましたが、そこは元、地下鉄の車庫でした。

町の区画と長屋づくり

播磨町と阪南町の大部分は整然とした区画わりで町が形作られています。東西と南北にまっ直ぐな道が付いており、これらの直角に交叉する道に縁取られた町割りには、あまり大きさの違わない家が並んでいます。
 それらは、いわゆる、長屋なのですが、同じ造りの家が三軒とか4軒連なっています。が、よく見ますと、それらの三軒や四軒が全く同じ造りではありません。特に三軒長屋は、ほぼ例外なく端の一軒を一回り大きく造ってあります。四軒長屋の場合は同じ造りのこともあります。この事について、小学生の頃、近所のお年寄りに質問したことが有ります。「何故、三軒とも同じ形の家にせえへんのやろか」と。すると、教えて下さった答えは「三人揃って、写真撮るの嫌がるやろ、真ん中の人は早よう亡くなる言うて嫌がるやろ、あれと同じ考えや。真ん中の家は験が悪い言うて、住む人あらへんのや。そやから、端の一軒だけ少し形変えて建てて、三軒長屋と違う、ということにしてあるんや。」と言うことでした。世間では「家相の良い家」とか「験の悪い家」とか、家に纏わっていろいろと縁起担ぎを話題にします。ところが、家の造りにこだわる事には「単なる縁起担ぎだ」と言って切り捨てることの出来ない、ある種の合理性が有るような気もします。否、私の単なる推量ではなくて厳然として合理性が存在し、それらの集積の上に町屋が造られているのではないだろうか、と思うのです。こうした辺り、是非、ご専門の方々にお教えいただきたいとも思っています。
 幼少の頃、日本中の町は全て播磨町や阪南町の様な造りになっているものと思っていました。ところが、小学校の高学年になった頃、長居辺りまで自転車で遊びに出かけて古い集落に迷い込み、自身の住まう播磨町の佇まいとは随分と違うなあ、と気づき始めました。道がT字型やL字型に連なったり、或いは曲がっていたりして、方角も見失いがちになりました。また、この様に古くから開けた集落の家屋の中には長屋門を構え、城郭を想わせるような母屋を持ち、屋敷には樹齢100年を越す楠などが森のように繁っている家もありました。
 この様な町は、当然のことですが、余所者が入って行くと道に迷うこともあり、不便な作りになっているな、と思うことが多いです。ですが、実はこの様に複雑に出来ている町こそかつて庶民が知恵を出し合って造った、ごく普通の町でした。一方、播磨町や阪南町のように整然とした区画割りの町は明治以降の近代的な都市計画に依って出現したのです。この事は、長じて郷土史の書物を読んで知ったことですが、更にもう少し詳しく言いますと、先ず、阪南町の北半分ほどの地域を対象に、1924(大正13)年、都市計画法による日本で最初の土地区画整理組合が設立され、1931(昭和6)年に解散するまでに約130ヘクタールが整理され、町割りを現在の姿に一新しました。引き続き、桃ヶ池、田辺、播磨などの区画整理が推進されていきました。このように阿倍野区の土地区画整理事業は日本の近代的な都市計画の第一号として実施されたそうです。(古代の平城京などの都城や明治時代に原野を開発した北海道の札幌のような都市とは異なった発展過程を辿った「都市計画」という意味です。)

連載「わが町・あべの」第6回:プール(「水難の恐れ」続編)

あすの会メンバーの森本成毅さんによるエッセイ「わが町・あべの」の連載第6回です。
今回は、前回お話しいただきました「水難の恐れ」続編です。
子供たちにとってプールが珍しいものだった頃のお話しです。
第6回:プール(「水難の恐れ」続編)