カテゴリー別アーカイブ: 「わが町・あべの」森本成毅 著

第10話 水源地

阿倍野区の南端に大阪市水道局の住吉配水場があります。あの箇所にはかつて(1950年頃のことですが)高さ4〜5㍍の砂礫の山が有って、雑木や雑草で囲まれていました。更に、道路を隔てた東側にも高さ2㍍程盛り上がった一画があり、そこも雑草や雑木で覆われていました。現在、そこには郵政公社の社宅があります。そして、配水場と社宅の間の道を南に行った突き当たりには西園寺さん(浄土真宗本願寺派)がありますが、あのお寺から西田辺団地にかけての一面は土木工事が中断され放置されて、トロッコのレールなどが錆び付いたまま残っていました。そこは2〜3㍍の台地状の砂山で雑草も少く、しかも囲いも無かったものですから、私たち小学生が遊ぶのには絶好の場所でした。そして、近所の大人たちはこれらの地域一体を「水源地」と呼んでいましたから、小学校低学年の私たちも、水源地の意味が分からず、従って何をするところかも知らないまま、「今日は水源地で遊ぼう。」などと言っていました。
トロッコのレールが残っていた砂山からは遠く臨南寺、国鉄・阪和線、旧長居村の集落などが見渡せました。砂山とそれらの間には遮蔽する物は無く一面の畑でしたから見晴らしが良く、阪和線の電車の通る様も1㎞ほどは離れているのによく見えました。電車のやって来る音で気付き、砂遊びなどの手を止め、見とれたものでした。長居駅と鶴ヶ丘駅の間の線路に沿っても建造物が皆無で(線路向こうの臨南寺が見えていたのですから)、その間を行き来する電車を目で追うことが出来ました。まるで、パノラマを見ているような感じだったのです。又、音と言えば、長居の農家で飼っている牛の鳴き声も聞こえてきました。勿論、和泉山脈や金剛山地の山並みも遠望でき、風景画の格好の題材になりましたから、5,6年生頃の図画の宿題は専ら砂山に出かけ写生したものです。
更に、住吉配水場の場所にあった砂礫の山について話を続けます。実はこの山の東側に一カ所低くなった箇所があり、そこから綺麗な水が流れ出ていました。あたりの農業用水やどぶ川とは全く異なる透明な水で、何時行っても30センチほどの幅で勢いよく流れていました。これがいったい何なのか、不思議でなりませんでしたが、やがて、それが不思議な池から流れ出る水であることを知る機会に恵まれました。
砂礫の山の北側に小さな門が在って、入って直ぐの所に守衛所の様な小さな建物が在りました。そこに住んでいたS氏が実は亡母の遠縁に当たる人だったものですから、ある日父母に連れられ中に入る機会がありました。それまでは雑木や雑草で囲まれた砂礫の山の上部だけを外から見ていたのですが、囲いの中に入って砂礫の山に登ることが出来ました。山に登って分かったのですが、そこには砂礫を堰堤にした大きな池が在りました。それも農業用の溜池のような水草などは全く無く透明な水があふれんばかりに蓄えられていたのでした。不思議な池があるものだな、と小学生の私はただ呆然と見取れるだけで、「水源地」に、即ち上水道に絡ませて考えてみることは出来ませんでした。
確か、小学校の5年生の頃だったと記憶していますが、「阿倍野区播磨町に住吉配水場がようやく完成、市内南部の水道が改善。」といった新聞報道に接しました。工事を中断していた加圧ポンプ場の完成記事でしたが、以後、水道の出具合が良くなりましたし、これで不思議な池の「謎」が解けたのでした。
ところで、住吉配水場を今なお「水源地」と呼ぶ高齢者もいらっしゃいます。長い間工事が中断されていた、その頃の印象が強かったからでしょうか。
住吉配水場
阿倍野区播磨町2−7

第9話 市バスの運賃

 次に、話を進めたいのは、市営交通機関の運賃、特に、市バスの運賃に関わる話です。
話題は二つあるのですが、先ず、小学校2年生の時の失敗談から始めます。
 60年ほど前の事ですが、今なお、あの時のバス中での光景を、鮮明に記憶しています。
 兄と二人で近鉄百貨店へ学習参考書を買いに行った帰りのバスでのことでした。往路は徒歩で、疲れた復路は市バスに乗ったのですが、運賃が値上がりしていたのを全く知らなかったのです。
 播磨町で下車する段になって、お金の足りないことに気付きました。女車掌は詰問するような口調で料金不足を言い立てました。私たちはひたすら頭を垂れて詫び続けましたが、恥ずかしさから、弱々しい声になっていました。今にも泣き出しそうになった、その時、すぐそばにいた小母さんが「私が払ったげるわ。値上がりしてるの知らなかったのでしょう。」と言って不足金を払って下さったのです。私たちは消え入るような声で「有り難うございます。」と言うと、急いでバスを降りました。恥ずかしさと共に、一方、やれやれ助かった、それにしても、世の中には親切な人もおられるなぁ、と言った喜びと驚きを同時に味わったのでした。
 この稿を書くに際し、『市営交通100年の記録』(大阪市交通局編著)に当たってみましたところ、1945(昭和20)年〜1951(昭和26)年の6年間に、7回もの料金改定が行われていました。料金不足事件をしでかした48(昭和23)年のように、年度中に2度、改定された年もありました。当時は猛烈なインフレで、45年の30銭から51年の15円へと上がっていたのです。(いずれも、1区間の運賃。6年で50倍に。即ち、およそ、1年で物価は10倍、上昇していたのです。)15円に改定された51年頃から、経済は安定してきたのでしょう、物価も落ち着き、次に20円に改定されたのは64(昭和39)年のことでした。
約13年間もの間、15円時代があったのですが、
二つ目の話題は、この15円時代の「切符屋さん」のことです。
「切符屋」と言っても、交通局或いはその外郭団体の職員ではなくて、市井のおっちゃん・おばちゃんが勝手に市バス停留所付近で立ち売りしたのです。
 仕掛けは次のようです。15円の乗車券7枚を綴った「回数券」が100円で販売されていました。交通局の各営業所の他に、停留所周辺のタバコ屋・酒屋・文房具店などが委託販売していたのですが、それを仕入れ、ばらして、バスを待っている乗客に売りつけるのです。7枚売れば、5円の利益になった訳です。
 当時、地下鉄はもちろん、市電(路面電車)は天王寺から南には路線を持たず、市南部、とりわけて今の平野区・東住吉区はとても不便な地域で、拡張されたばかりのバス路線が唯一の交通手段でした。国鉄・天王寺駅の周り、具体的に言いますと、天王寺公園の入口前、駅の西側、即ち、阿倍野橋の上、駅の南側は駅舎に沿ってと向側の近鉄デパートの前、これらに10を超すバス・ストップがあり、常に、大勢の人が群がっておりました。そのバス待ちの群衆を掻き分けて、切符屋さんが売って回ったのです。10数人はいたと思います。
 そして、切符を売るだけでなく、地理不案内の乗客に「行先案内」のサービスもしていたのです。客の行先を聞き、その乗り場を案内したのです。事務的な車内放送やコンピュータに依る電光掲示に指図される現在とは違って、行き届いた案内で乗客も頼りにしていたのでしょう、深々と頭を下げていた老人の姿も記憶しています。
天王寺駅界隈を歩きますと、この人情味のある光景を郷愁のような感じで思い出すのです。
参考資料:バス運賃表
      『市営交通100年の記録』(大阪市交通局編著)

第8話 100人乗りのバス

 前回の「青空地下鉄」に関連した話題で、市バスの事を書きます。
小学校の低学年の頃(1940年代の末期)、遠方に出かける際の交通手段は専ら市バスでした。ディーゼルエンジンで走行するバスの他に、木炭バスや電気バス(写真①)も運行されていて、炭俵を後部に積んで走った木炭バスのいかにも古めかしく且つ又ユーモラスな車体や電気バスの静かにノロノロと走行した弱々しい印象が記憶に残っています。
 電気バスについて、こんな記憶もあります。父親と播磨町から阿倍野橋に向かって乗車したのですが、途中、阿倍野筋3丁目あたりで走行不能になり、乗客全員が降ろされたのです。超満員でしたから、バッテリーが干上がったのでしょう。「阿倍野橋まで、まだ、だいぶあるぞ、運賃まけろ。」「しっかり、充電してこい。最初から、電気、ケチってるんだろう。」などと、大人たちは運転手や車掌に苦情を言いながらも、降車して阿倍野橋まで歩きました。バス車両が不足した時代でしたから、停留所で待っていても、やって来るバスが満員で、車掌が窓から顔を出し、「満員です、次に願います。」と言いつつ、停車すらしないまま奔る去る事もしばしばでした。
 そこで登場したのが、米軍払い下げのトラックやトレーラーを改造したバスでした。(写真②と③)②のトラック改造バスの後輪がダブルタイヤでいかにも頑丈そうであったのが記憶に残っていますが、乗りますとガタガタと振動が激しかった覚えもあります。更に、③のトレーラー改造バスは懐かしさがしきりです。私たちはこのバスを「100人乗りバス」と呼びました。トレーラーバスの運行の事を母親から教えて貰って、播磨町の交差点へわざわざ見に行きました。と言うのは、播磨町が終点でしたからUターンしていたのですが、トレーラーバスが大きい図体をソロリソロリと回転させる様は、子どもにとってかなり面白いことで、見物するに値する情景だったのです。しかも、当時、播磨町の交差点は三叉路でT字型でした。(即ち、播磨町から西へ、玉出方面への道路は未開通でした。)ですから、十字型の交差点に比べると回転が難しいだろうと思いながら見ていた記憶があります。もう一つ、面白いなと感じたのはトレーラーバスの運転室後部右側に取り付けられてある排気用の煙突(?)の存在でした。発車するときなど、思いっきり黒い煙を噴き上げる様は何処か蒸気機関車を連想させて力強く感じました。
当時、1940年代後半は、播磨町の交差点を米軍の自動車がよく通りました。浜寺公園や杉本町(市立大学)に米軍キャンプがあったからでしょうか。ジープやトラック、トレーラーなどが、数台で時には十数台で車列を組み昼間からライトを点け少量ですがサイレンを鳴らしながら往来しました。実は、その車列をも何度か見に行ったものですが、その度に、子供心にもアメリカは物資の豊かな国なんだな、と思いました。何もかも不足した、取り分けて食糧不足で飢えに苦しんでいた日々でしたから、米軍の重量感溢れる車列に感じ入ったのでしょう。あのトラックなどには、何を積んでいるのだろうか、多分、食物だろうな、等と他愛もないことをあれこれと想像していました。
ですから、米軍払い下げの改造バスに乗りますと、ガタガタと揺れて乗り心地が悪くても、特別仕様の頑強な乗り物に乗っている気分になり、先述の電気バスが貧弱に思えたのでした。
null
バス①
null
バス②
null
バス③

青空地下鉄

前々回、前回と水に関わる話を書きましたが、今回も水に関する話から始めます。小学校3,4年生の頃の記憶で、地下鉄・御堂筋線が完成する以前のこと、現在、西田辺駅のある辺りに長細い池が在りました。
20050323-ike.jpg
 周囲は大部分が住宅で、畑が少しあるだけでしたので、子供心に「何故、こんな所にため池があるのだろう」と不思議に思ったものでした。同じ年頃、トンボやチョウチョウを採りにしばしば播磨町2丁目から長居にかけて出かけましたが、そのあたりは見渡す限り田畑でしたから、大領池のような大きな池のあることは子ども心にも十分納得できましたが・・。写真の池の正体が、やがて、分かるのでした。
実は、この池は農業用のそれではなく、地下鉄工事が中断した所に水が貯まってできた池だったのです。この池の存在を知って間もなく、工事が再開されて、1952(昭和27)年10月5日、大阪市営地下鉄1号線の昭和町〜西田辺間が開通しました。それは6年生の秋のことで、翌春、卒業記念の「お別れ遠足」の際に初めて乗車したように記憶しています。担任の先生が、地下鉄の車両は鋼鉄製の「不燃車両」であると熱っぽく説明して下さったことを、今も鮮明に覚えています。南海上町線や国鉄・城東線(現在のJR・環状線)の電車の床・壁・窓枠などが木で出来ており、ガタガタ・ミシミシとそれはもうやかましい事でしたから、地下鉄の車両はガッチリしていて、とても頼もしく見えたものでした。
 西田辺に地下鉄がついた前の年(1951年)の春、横浜市の桜木町駅で国電の車両火災が発生、2両焼失、100余名の死者が出る大惨事がありました。骨組みの鉄骨を残して、すっかり焼けてしまった国鉄電車の写真を新聞で見て、大きな衝撃を受けました。私達は5年生になったばかりの頃で、ぼちぼち社会の出来事に関心を持ち始めていた年頃でしたから、授業前の教室で話題になり、騒然とした雰囲気になりました。担任の先生が更に詳しく解説して下さり、木造の車両であったこと、窓が人の出入りができる程大きくは開かない構造になっていたこと(意味は分かりませんでしたが、六三型の国電と呼ばれたことも覚えています)など、話題は尽きない感じで一時期、少年達の心を捉えていたのでした。上記の地下鉄車両の説明もこうした事件の延長上の話だったと思います。
 ところで、着工は1941(昭和16)年11月17日だったそうですから、推測しますと、10年近い工事中断だったのでしょうが、状況の面白さは、それだけではなかったのです。と言いますのは、開通したものの工事は完了していなかったのです。オープンカット方式で工事を進めたのですが、一部に天井の無い、いわば切り通しの様なままになっており、私達は「青空地下鉄」と呼びました。
20050323-tetudo.jpg
 昭和中学校への登校途中、フタのない地下鉄の際を通るのですが、金網越しに石を投げてはいけない、と生徒指導部の先生方が生徒集会の折などによく注意なさいました。投げた経験も投げているのを見たことも無かったですが、写真②にあるのり面下部の溝などを見ると、こぶし大の石がたくさんあったのを覚えています。
(因みに、天王寺〜昭和町間は1951年12月20日に開通。なお、当時は御堂筋線という呼称はありませんで、1号線と呼んでいました。確か、万国博のあった70年以降、名付けられたように記憶しています。市営の路面電車の廃止と地下鉄の大幅な延伸が同時に行われた時期でした。)

プール (「水難の恐れ」 続編)

1950年頃(昭和25年頃)の大阪では、幼児や児童にとって交通事故よりも水難の方が多かった、と前回書きました。その頃、耳にした水難事故を1件書きます。
 それは大高のプールでの溺死でした。大高とは旧制大阪高等学校(国立)の略称で、近所では1950年に大阪大学の教養部に統合された後でも、そのように呼ぶ人達が多かったのです。現在の市バスの停留所「阪南団地前」を「阪大南校前」と呼んでいた記憶もあります。
その事故は、5年生の夏のことでした。同級生・N君の弟さん(小学1年生)が数人の友達と共に大高に忍び込んで遊んでいてプールで溺れ死んだのです。私たちの学級担任のU先生は状況を詳しく説明した後、決して大高に入ってはいけない、と注意されました。更にN君のお家が母子家庭であること、事故の報せを聞いて駆けつけたお母さんが悲しみの余り狂乱状態になられたとも話して下さったのです。この事故のずっと以前から、両親も大高には深いプールなどがあって危険だから近づかないようにと注意して呉れていました。
 プールと言いますと、私たちが通学していた阪南小学校にプールがありました。当時、プールのある学校は少なかったのですが、このことについても、少し書きましょう。これも5年生の時に聞いた話です。隣のクラスの先生が、ある日の水泳授業で、「本校のプールは小さいな、英語のプールと言う言葉には『水たまり』という意味もあるらしいよ。うちのプールはまるで水たまりだ。」と冗談を言われました。5㍍×20㍍だったように記憶しています。そこへ1クラス50名×5クラスの1学年全員が一度の入るのですから、正に「芋の子を洗う」状態でした。更に、学校のプールは防火用水を目的に造った、との話しも後日、近所の老人から聞いた記憶があります。でも、建造理由が何であれ、周りの小・中学校にはプールが無かっただけに阪小の私達には自慢の種でした。(プールが珍しかっただけに、大高に忍び込んで遊ぶ子どもが絶えなかったのかも知れません。大人も忍び込んでプールで泳いだとの話しも聞きましたから。)
 ところで、プールの他に校区には数カ所、空襲対策の防火用水池がありました。ここにも決して近づかないようにと口を酸っぱくして先生方や親から注意されたものです。この防火用水池は上から見ると25坪ほどの正方形で、池底は四角錐を逆さまにしたような形をしており45度ほどの傾斜になっており、しかも池の周囲には「取っ手」のような支えが一切無く、大人でも滑り落ちると抜け出すのが難しいだろうと子ども心にも思いました。実は怖い物見たさに2,3度覗きに行ったことがあるのです。半分ほどに減った池水にはたくさん水草が繁茂しており、私たちの足音を聞いてカエルが次々と飛び込んで逃げました。
小学校のプールや防火用水池が何故造られたのでしょうか。勿論、空襲対策なのでしょうが、他の地域はどうだったのでしょうか、阿倍野区のようにたくさん造られたのでしょうか。このことで思い出すことがあります。昭和26年に大阪市水道局の住吉配水場が出来るまでは、上水道の水の出具合がとても悪かったことです。東淀川区の柴島配水場から遠く離れておりしかも上町台地に造られた住宅地で水圧が低かったからでしょう。こうしたことが、プールや防火用水池の設置につながっていたのではないかと思うのです。
(大阪高等学校や住吉配水上についても、後日、稿を改めて書きたいと思っています。)

水難の恐れ

小学校4年生の7月半ばの事であったと記憶しています。たぶん短縮授業中であったのでしょう。給食後、直ぐに学校から帰宅し、友達数人と誘い合って校区の南、町名で言いますと播磨町3丁目から阪南町7丁目・西長居辺りへトンボ取りに出かけました。と言うよりも、われわれ悪童どもは何か面白いことはないか、悪戯をして大人を困らせてやろう、といった雰囲気で出かけたのです。「ギャングエイジ」の最中でしたから・・。
当時、柴谷線と呼び合っていました南港通りを渡り(勿論、信号などは有りません)、播磨町西2丁目を歩いていた時でした。仲間中で一番のワルのY君が、とつぜん、「お屋敷」の呼び鈴を押して駆け出したのです。それを察知するとわれわれ仲間もいっせいに蜘蛛の子を散らすように逃げました。ところが、事前の打ち合わせをしていなかったものですから、仲間は散り散りになってしまいました。その結果、どうやら私一人がはぐれたようでした。
さて、どうしたものかと思案した時、数日前に仲間と行った臨南寺のそばの池を思い出しました。それは阪和線に沿った長細い池でとても澄んだ水が気に入ったのでした。現在の球技場の辺りに在ったのです。池の周りには人家などは見当たらず、田畑も無くて雑草が生い茂っていました。時折、横を通る電車の警笛に吃驚させられながら、池の周りを何回も回って澄んだ水面を覗き込んで過ごしました。その池を独り占め出来たような気分になって帰途に就いたのです。
 ところが、帰宅してビックリ。家の前は10人ほどの人だかりです。私に駆け寄ってきて「無事で良かったね」と涙ぐむ近所の小母さんまでおられました。そして、両親から大目玉を食らいました。例のワルのY君らが再集合した後、私の家に来て「森本君の姿が見えなくなった」と報告したものですから、手分けして探し回ったのでした。当時の阿倍野区には米軍の空襲に備えた防火用水池や田畑用の野井戸・肥溜めがたくさん在り、そこで死亡する幼児・少年がたくさんいたからです。親たちは交通事故よりも水難の方を恐れていたのです。先述の柴谷線では5,6歳上の人達がキャッチボールをしていた記憶がありますが、それほどに自動車の少ない時代で、交通事故は極めて稀なことでした。
 かつて、阪和線に沿って南北2キロほどもあるひと続きの長細い池が在ったようです。北端は阪和線と阪神高速・松原線のクロスする辺り、南の端は先程お話しした池で、臨南寺境内の北辺りです。小学生頃の記憶でも、昭和中学校の在る所・長池小学校東側の野球場・シャープ本社ビル東側の小公園など、全てが池でした。それ以外にも池が多くて、阪南中学校も「今池」を埋め立てて建設されましたし、育徳園保育所の旧園舎の西側にも池が在りました。府立病院の東側には大領池と呼ばれた大きな二つの池が在りました。
 と言うわけで、親たちは水難を恐れたのでした。明治18年の付近の地形図を付けておきますのでよくご覧下さい。私の少年時代は付近の地形に関して言いますと明治の中頃と大差がなかったようです。
 因みに、「呼び鈴」はヨビリンと言いますが、当時、これを設置している家は1割り以下であって大きな邸宅に限られていたと思います。その珍しさが先述の様な悪戯のきっかけだったとも思います。家人が出てこられてキョロキョロと来客を捜す様を陰に隠れて見て喜ぶのです。時には囃して逃げました。インターホン付きの呼び鈴では出来ない、出来ても面白くない悪戯です。門扉を開けて家人が姿を現すまでかなり時間が掛かる、それだけ大人に手間をかけさせるから面白いので、ボタンを押すや否や「どちらさまですか」と応答されては悪戯のやり甲斐がないでしょう。又、チャイムなどというハイカラな言葉の登場と共に呼び鈴は急速に普及していきました。経済が高度成長期に入ったのですが、それに連れて阿倍野区南部の牧歌的な景観も急速に変化していきました。
20050323-Scan11.jpg
明治18年の地形図。
右下の黒く細長い部分が阪和線沿いの池。

播磨町の由来

前回(「阿倍野の開発」)の中で、阿倍野は用水の不足が原因で近代になるまであまり開発されることもなかった、特に区内の中央、上町台地が北から南へゆっくりと傾斜を持ちつつ横たわる地域は雑木林であったのではないか、また、それが原因となって近代になるまで開発が遅れたのではないか、との意味のことを記しました。だが、そんな地域でも地名が付けられていますし、その地名も歴史を持っているはずです。今回は、播磨町の由来に関わる話を中心に書いてみます。
 そもそも阿倍野の地は、近在に平野郷町や住吉村など大きな集落が古くから拓け、上町台地の尾根筋には熊野街道が設けられていましたし、更に権力の中枢部があった奈良・京都にも比較的近い地でもあったのですから、地理的に価値の高い場所でした。ですが、用水不足の雑木林・雑草地ともなると開発は考慮されず、むしろ悲惨な事件の場所として歴史上に登場することもあったようです。即ち、近くの都で権力闘争が行われ、その果てに武力と武力がぶつかり合う場所、即ち、戦場として選ばれたのです。
 平治の乱(1159年)では、源義朝挙兵の報を受けて熊野街道を京へ取って返していた平清盛の軍勢を源義朝の子息・悪源太義平が阿倍野で迎撃しようとしました。
 更にその後、院政期の末(永万年間)には、四天王寺と住吉社が阿倍野の地を奪い合って争ったりしました。
 最も大きな紛争は南北朝の頃に有り、阿倍野は何度も決戦場となりました。例えば、北朝方の赤松勢は敗走の際、慌てて死者を葬り土饅頭を残して去りました。地元民は、後日、赤松勢の本拠地である播磨に因み播磨塚と呼びました。これが播磨町の地名の由来です。
 残っている文書の少ない大和政権時代、更に、それ以前の古墳時代にも阿倍野は権力闘争の地・争いの地であっただろうと推測出来ます。阿倍野は物部氏・大伴氏らと共に有力氏族であった阿倍氏の勢力地であって、その氏寺が今の阿倍野区松崎町にあった形跡があるのです。寺の礎石などが都市開発で掘り返されて大部分は散逸しましたが、一部が天下茶屋公園に保存されています。そもそも、阿倍野とは「阿倍氏」に由来するとの説が有力なのです。
 因みに、アベノの表記には「阿倍野」(区名や王子神社に)の他に「安倍野」(安倍晴明神社に)「阿部野」(近鉄阿部野橋駅や阿部野神社に)が使われています。  
 ところで、奈良県の當麻町や御所市或いは大阪府の太子町や河南町に住まいする友人の中に郵便物の宛名書きを「阿部野区」と書いてくる人が結構多いです。これは近鉄の阿部野橋駅の表示が記憶にあるからでしょうか。

阿倍野の開発

整然とした区画割りと長屋の並ぶ町(前々回)、住吉区を三つに分区して阿倍野区の誕生(前回)と話を進めて来ました。大正末期から昭和の初期に都市計画法に拠って開発された近代的な計画都市であるとも述べました。
 では、開発以前の阿倍野はどんな様子であったのか、上記の時期まで開発されなかったのは何故か、今回はこれらのテーマで書いてみます。(03/11/23の「オープン長屋」の折に話しました内容の要約でもありますが。)
明治18年発行の地形図(五万分の一)を見ますと、阿倍野の地は標高10〜15mの丘陵地で近くに川が無く池が散在する高燥地であることが分かります。更に、土地利用を見ますと田畑特に田は少ししか見当りません。とりわけ、中央を南北に走る上町台地は全くと言って良いほど活用されておりません。(この台地の尾根伝いに旧熊野街道が設けられていたのですが。)だからと言って、そこは山間地のように森林で覆われていたのでもありません。言わば、雑木林や雑草地であった、と解すべきでしょう。明治当初の阿倍野(勿論、大阪市へは未編入)の住居の様子を調べますと下記の通りでした。
天王寺村字阿倍野(今の阿倍野元町)65戸、猿山新田(今の西田辺町で田辺村の分村)28戸が主な集落で、他には住吉村・桑津村など周辺の村の一部の集落が阿倍野区域内に在った事になります。それほど人口過疎地であった阿倍野ですが、明治30年の大阪馬車鉄道の開通(四天王寺〜住吉大社間・明治43年に電化・現在の上町線の前身)以後、急速に人口増加していき、大正13年には阿倍野村は人口58000人を数え、当時、日本一の村になって、やがて翌14年、大阪市に編入されました。が、しかし、その時点でも区域の中央部(今の阪南町・播磨町など)には殆ど集落が無く、前々回に述べました「大正末期の区画割り」を待つのです。更に、大正14年発行の地形図を見ますと、阿倍野区のほぼ中央、広々と拡がる畑地の真中に桃山中学(今の桃山学院高等学校の前身)が記されています。恐らくそこからは四天王寺の五重塔も見えたことでしょう。昭和27年、私は小学校6年生でしたが、地下鉄が西田辺まで開通しましたが、駅前から大阪城の天守閣が見えていましたから。
 では、何故、これほどまで開発が遅れたのでしょうか。周辺には、平野・桑津・田辺・住吉など古くから、それも大規模な集落が発達していたのにも拘わらず、です。
『娘やるなよ、天王寺国分、夏は深井戸に 夜水汲む』こんな俗謡が残っているそうです。(因みに、上記の「天王寺国分」の「国分」とはJR寺田町駅周辺の地名で、天王寺区と生野区にまたがっており、かつては天王寺村の一部でした。)この俗謡は何を意味するのでしょうか。地下水面が深く、井戸からの水汲みが大変です、ということです。農耕用水はおろか、炊事・洗濯に必要な生活用水までままならない地だ、とも解されます。近代的な上水道が普及する明治末期まで、阿倍野は本格的に人の住める土地ではなかったのでしょう。この様な事情から、阿倍野の開発が随分と遅れることになった、と理解するのが相応しいと思います。