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三信ビル保存プロジェクト

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東京の日比谷公園前にある昭和初期のオフィスビル「三信ビルディング」が取り壊しの危機にあります。
東京を中心とした有志のメンバーが、周辺地区のまちづくり提案を含めた三信ビル保存のためのプロジェクトを起こしています。
興味のある方はホームページをごらんください。
有楽町日比谷地区のまちづくり提案 | 三信ビル保存プロジェクト
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青空地下鉄

前々回、前回と水に関わる話を書きましたが、今回も水に関する話から始めます。小学校3,4年生の頃の記憶で、地下鉄・御堂筋線が完成する以前のこと、現在、西田辺駅のある辺りに長細い池が在りました。
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 周囲は大部分が住宅で、畑が少しあるだけでしたので、子供心に「何故、こんな所にため池があるのだろう」と不思議に思ったものでした。同じ年頃、トンボやチョウチョウを採りにしばしば播磨町2丁目から長居にかけて出かけましたが、そのあたりは見渡す限り田畑でしたから、大領池のような大きな池のあることは子ども心にも十分納得できましたが・・。写真の池の正体が、やがて、分かるのでした。
実は、この池は農業用のそれではなく、地下鉄工事が中断した所に水が貯まってできた池だったのです。この池の存在を知って間もなく、工事が再開されて、1952(昭和27)年10月5日、大阪市営地下鉄1号線の昭和町〜西田辺間が開通しました。それは6年生の秋のことで、翌春、卒業記念の「お別れ遠足」の際に初めて乗車したように記憶しています。担任の先生が、地下鉄の車両は鋼鉄製の「不燃車両」であると熱っぽく説明して下さったことを、今も鮮明に覚えています。南海上町線や国鉄・城東線(現在のJR・環状線)の電車の床・壁・窓枠などが木で出来ており、ガタガタ・ミシミシとそれはもうやかましい事でしたから、地下鉄の車両はガッチリしていて、とても頼もしく見えたものでした。
 西田辺に地下鉄がついた前の年(1951年)の春、横浜市の桜木町駅で国電の車両火災が発生、2両焼失、100余名の死者が出る大惨事がありました。骨組みの鉄骨を残して、すっかり焼けてしまった国鉄電車の写真を新聞で見て、大きな衝撃を受けました。私達は5年生になったばかりの頃で、ぼちぼち社会の出来事に関心を持ち始めていた年頃でしたから、授業前の教室で話題になり、騒然とした雰囲気になりました。担任の先生が更に詳しく解説して下さり、木造の車両であったこと、窓が人の出入りができる程大きくは開かない構造になっていたこと(意味は分かりませんでしたが、六三型の国電と呼ばれたことも覚えています)など、話題は尽きない感じで一時期、少年達の心を捉えていたのでした。上記の地下鉄車両の説明もこうした事件の延長上の話だったと思います。
 ところで、着工は1941(昭和16)年11月17日だったそうですから、推測しますと、10年近い工事中断だったのでしょうが、状況の面白さは、それだけではなかったのです。と言いますのは、開通したものの工事は完了していなかったのです。オープンカット方式で工事を進めたのですが、一部に天井の無い、いわば切り通しの様なままになっており、私達は「青空地下鉄」と呼びました。
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 昭和中学校への登校途中、フタのない地下鉄の際を通るのですが、金網越しに石を投げてはいけない、と生徒指導部の先生方が生徒集会の折などによく注意なさいました。投げた経験も投げているのを見たことも無かったですが、写真②にあるのり面下部の溝などを見ると、こぶし大の石がたくさんあったのを覚えています。
(因みに、天王寺〜昭和町間は1951年12月20日に開通。なお、当時は御堂筋線という呼称はありませんで、1号線と呼んでいました。確か、万国博のあった70年以降、名付けられたように記憶しています。市営の路面電車の廃止と地下鉄の大幅な延伸が同時に行われた時期でした。)

プール (「水難の恐れ」 続編)

1950年頃(昭和25年頃)の大阪では、幼児や児童にとって交通事故よりも水難の方が多かった、と前回書きました。その頃、耳にした水難事故を1件書きます。
 それは大高のプールでの溺死でした。大高とは旧制大阪高等学校(国立)の略称で、近所では1950年に大阪大学の教養部に統合された後でも、そのように呼ぶ人達が多かったのです。現在の市バスの停留所「阪南団地前」を「阪大南校前」と呼んでいた記憶もあります。
その事故は、5年生の夏のことでした。同級生・N君の弟さん(小学1年生)が数人の友達と共に大高に忍び込んで遊んでいてプールで溺れ死んだのです。私たちの学級担任のU先生は状況を詳しく説明した後、決して大高に入ってはいけない、と注意されました。更にN君のお家が母子家庭であること、事故の報せを聞いて駆けつけたお母さんが悲しみの余り狂乱状態になられたとも話して下さったのです。この事故のずっと以前から、両親も大高には深いプールなどがあって危険だから近づかないようにと注意して呉れていました。
 プールと言いますと、私たちが通学していた阪南小学校にプールがありました。当時、プールのある学校は少なかったのですが、このことについても、少し書きましょう。これも5年生の時に聞いた話です。隣のクラスの先生が、ある日の水泳授業で、「本校のプールは小さいな、英語のプールと言う言葉には『水たまり』という意味もあるらしいよ。うちのプールはまるで水たまりだ。」と冗談を言われました。5㍍×20㍍だったように記憶しています。そこへ1クラス50名×5クラスの1学年全員が一度の入るのですから、正に「芋の子を洗う」状態でした。更に、学校のプールは防火用水を目的に造った、との話しも後日、近所の老人から聞いた記憶があります。でも、建造理由が何であれ、周りの小・中学校にはプールが無かっただけに阪小の私達には自慢の種でした。(プールが珍しかっただけに、大高に忍び込んで遊ぶ子どもが絶えなかったのかも知れません。大人も忍び込んでプールで泳いだとの話しも聞きましたから。)
 ところで、プールの他に校区には数カ所、空襲対策の防火用水池がありました。ここにも決して近づかないようにと口を酸っぱくして先生方や親から注意されたものです。この防火用水池は上から見ると25坪ほどの正方形で、池底は四角錐を逆さまにしたような形をしており45度ほどの傾斜になっており、しかも池の周囲には「取っ手」のような支えが一切無く、大人でも滑り落ちると抜け出すのが難しいだろうと子ども心にも思いました。実は怖い物見たさに2,3度覗きに行ったことがあるのです。半分ほどに減った池水にはたくさん水草が繁茂しており、私たちの足音を聞いてカエルが次々と飛び込んで逃げました。
小学校のプールや防火用水池が何故造られたのでしょうか。勿論、空襲対策なのでしょうが、他の地域はどうだったのでしょうか、阿倍野区のようにたくさん造られたのでしょうか。このことで思い出すことがあります。昭和26年に大阪市水道局の住吉配水場が出来るまでは、上水道の水の出具合がとても悪かったことです。東淀川区の柴島配水場から遠く離れておりしかも上町台地に造られた住宅地で水圧が低かったからでしょう。こうしたことが、プールや防火用水池の設置につながっていたのではないかと思うのです。
(大阪高等学校や住吉配水上についても、後日、稿を改めて書きたいと思っています。)

水難の恐れ

小学校4年生の7月半ばの事であったと記憶しています。たぶん短縮授業中であったのでしょう。給食後、直ぐに学校から帰宅し、友達数人と誘い合って校区の南、町名で言いますと播磨町3丁目から阪南町7丁目・西長居辺りへトンボ取りに出かけました。と言うよりも、われわれ悪童どもは何か面白いことはないか、悪戯をして大人を困らせてやろう、といった雰囲気で出かけたのです。「ギャングエイジ」の最中でしたから・・。
当時、柴谷線と呼び合っていました南港通りを渡り(勿論、信号などは有りません)、播磨町西2丁目を歩いていた時でした。仲間中で一番のワルのY君が、とつぜん、「お屋敷」の呼び鈴を押して駆け出したのです。それを察知するとわれわれ仲間もいっせいに蜘蛛の子を散らすように逃げました。ところが、事前の打ち合わせをしていなかったものですから、仲間は散り散りになってしまいました。その結果、どうやら私一人がはぐれたようでした。
さて、どうしたものかと思案した時、数日前に仲間と行った臨南寺のそばの池を思い出しました。それは阪和線に沿った長細い池でとても澄んだ水が気に入ったのでした。現在の球技場の辺りに在ったのです。池の周りには人家などは見当たらず、田畑も無くて雑草が生い茂っていました。時折、横を通る電車の警笛に吃驚させられながら、池の周りを何回も回って澄んだ水面を覗き込んで過ごしました。その池を独り占め出来たような気分になって帰途に就いたのです。
 ところが、帰宅してビックリ。家の前は10人ほどの人だかりです。私に駆け寄ってきて「無事で良かったね」と涙ぐむ近所の小母さんまでおられました。そして、両親から大目玉を食らいました。例のワルのY君らが再集合した後、私の家に来て「森本君の姿が見えなくなった」と報告したものですから、手分けして探し回ったのでした。当時の阿倍野区には米軍の空襲に備えた防火用水池や田畑用の野井戸・肥溜めがたくさん在り、そこで死亡する幼児・少年がたくさんいたからです。親たちは交通事故よりも水難の方を恐れていたのです。先述の柴谷線では5,6歳上の人達がキャッチボールをしていた記憶がありますが、それほどに自動車の少ない時代で、交通事故は極めて稀なことでした。
 かつて、阪和線に沿って南北2キロほどもあるひと続きの長細い池が在ったようです。北端は阪和線と阪神高速・松原線のクロスする辺り、南の端は先程お話しした池で、臨南寺境内の北辺りです。小学生頃の記憶でも、昭和中学校の在る所・長池小学校東側の野球場・シャープ本社ビル東側の小公園など、全てが池でした。それ以外にも池が多くて、阪南中学校も「今池」を埋め立てて建設されましたし、育徳園保育所の旧園舎の西側にも池が在りました。府立病院の東側には大領池と呼ばれた大きな二つの池が在りました。
 と言うわけで、親たちは水難を恐れたのでした。明治18年の付近の地形図を付けておきますのでよくご覧下さい。私の少年時代は付近の地形に関して言いますと明治の中頃と大差がなかったようです。
 因みに、「呼び鈴」はヨビリンと言いますが、当時、これを設置している家は1割り以下であって大きな邸宅に限られていたと思います。その珍しさが先述の様な悪戯のきっかけだったとも思います。家人が出てこられてキョロキョロと来客を捜す様を陰に隠れて見て喜ぶのです。時には囃して逃げました。インターホン付きの呼び鈴では出来ない、出来ても面白くない悪戯です。門扉を開けて家人が姿を現すまでかなり時間が掛かる、それだけ大人に手間をかけさせるから面白いので、ボタンを押すや否や「どちらさまですか」と応答されては悪戯のやり甲斐がないでしょう。又、チャイムなどというハイカラな言葉の登場と共に呼び鈴は急速に普及していきました。経済が高度成長期に入ったのですが、それに連れて阿倍野区南部の牧歌的な景観も急速に変化していきました。
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明治18年の地形図。
右下の黒く細長い部分が阪和線沿いの池。

播磨町の由来

前回(「阿倍野の開発」)の中で、阿倍野は用水の不足が原因で近代になるまであまり開発されることもなかった、特に区内の中央、上町台地が北から南へゆっくりと傾斜を持ちつつ横たわる地域は雑木林であったのではないか、また、それが原因となって近代になるまで開発が遅れたのではないか、との意味のことを記しました。だが、そんな地域でも地名が付けられていますし、その地名も歴史を持っているはずです。今回は、播磨町の由来に関わる話を中心に書いてみます。
 そもそも阿倍野の地は、近在に平野郷町や住吉村など大きな集落が古くから拓け、上町台地の尾根筋には熊野街道が設けられていましたし、更に権力の中枢部があった奈良・京都にも比較的近い地でもあったのですから、地理的に価値の高い場所でした。ですが、用水不足の雑木林・雑草地ともなると開発は考慮されず、むしろ悲惨な事件の場所として歴史上に登場することもあったようです。即ち、近くの都で権力闘争が行われ、その果てに武力と武力がぶつかり合う場所、即ち、戦場として選ばれたのです。
 平治の乱(1159年)では、源義朝挙兵の報を受けて熊野街道を京へ取って返していた平清盛の軍勢を源義朝の子息・悪源太義平が阿倍野で迎撃しようとしました。
 更にその後、院政期の末(永万年間)には、四天王寺と住吉社が阿倍野の地を奪い合って争ったりしました。
 最も大きな紛争は南北朝の頃に有り、阿倍野は何度も決戦場となりました。例えば、北朝方の赤松勢は敗走の際、慌てて死者を葬り土饅頭を残して去りました。地元民は、後日、赤松勢の本拠地である播磨に因み播磨塚と呼びました。これが播磨町の地名の由来です。
 残っている文書の少ない大和政権時代、更に、それ以前の古墳時代にも阿倍野は権力闘争の地・争いの地であっただろうと推測出来ます。阿倍野は物部氏・大伴氏らと共に有力氏族であった阿倍氏の勢力地であって、その氏寺が今の阿倍野区松崎町にあった形跡があるのです。寺の礎石などが都市開発で掘り返されて大部分は散逸しましたが、一部が天下茶屋公園に保存されています。そもそも、阿倍野とは「阿倍氏」に由来するとの説が有力なのです。
 因みに、アベノの表記には「阿倍野」(区名や王子神社に)の他に「安倍野」(安倍晴明神社に)「阿部野」(近鉄阿部野橋駅や阿部野神社に)が使われています。  
 ところで、奈良県の當麻町や御所市或いは大阪府の太子町や河南町に住まいする友人の中に郵便物の宛名書きを「阿部野区」と書いてくる人が結構多いです。これは近鉄の阿部野橋駅の表示が記憶にあるからでしょうか。

阿倍野の開発

整然とした区画割りと長屋の並ぶ町(前々回)、住吉区を三つに分区して阿倍野区の誕生(前回)と話を進めて来ました。大正末期から昭和の初期に都市計画法に拠って開発された近代的な計画都市であるとも述べました。
 では、開発以前の阿倍野はどんな様子であったのか、上記の時期まで開発されなかったのは何故か、今回はこれらのテーマで書いてみます。(03/11/23の「オープン長屋」の折に話しました内容の要約でもありますが。)
明治18年発行の地形図(五万分の一)を見ますと、阿倍野の地は標高10〜15mの丘陵地で近くに川が無く池が散在する高燥地であることが分かります。更に、土地利用を見ますと田畑特に田は少ししか見当りません。とりわけ、中央を南北に走る上町台地は全くと言って良いほど活用されておりません。(この台地の尾根伝いに旧熊野街道が設けられていたのですが。)だからと言って、そこは山間地のように森林で覆われていたのでもありません。言わば、雑木林や雑草地であった、と解すべきでしょう。明治当初の阿倍野(勿論、大阪市へは未編入)の住居の様子を調べますと下記の通りでした。
天王寺村字阿倍野(今の阿倍野元町)65戸、猿山新田(今の西田辺町で田辺村の分村)28戸が主な集落で、他には住吉村・桑津村など周辺の村の一部の集落が阿倍野区域内に在った事になります。それほど人口過疎地であった阿倍野ですが、明治30年の大阪馬車鉄道の開通(四天王寺〜住吉大社間・明治43年に電化・現在の上町線の前身)以後、急速に人口増加していき、大正13年には阿倍野村は人口58000人を数え、当時、日本一の村になって、やがて翌14年、大阪市に編入されました。が、しかし、その時点でも区域の中央部(今の阪南町・播磨町など)には殆ど集落が無く、前々回に述べました「大正末期の区画割り」を待つのです。更に、大正14年発行の地形図を見ますと、阿倍野区のほぼ中央、広々と拡がる畑地の真中に桃山中学(今の桃山学院高等学校の前身)が記されています。恐らくそこからは四天王寺の五重塔も見えたことでしょう。昭和27年、私は小学校6年生でしたが、地下鉄が西田辺まで開通しましたが、駅前から大阪城の天守閣が見えていましたから。
 では、何故、これほどまで開発が遅れたのでしょうか。周辺には、平野・桑津・田辺・住吉など古くから、それも大規模な集落が発達していたのにも拘わらず、です。
『娘やるなよ、天王寺国分、夏は深井戸に 夜水汲む』こんな俗謡が残っているそうです。(因みに、上記の「天王寺国分」の「国分」とはJR寺田町駅周辺の地名で、天王寺区と生野区にまたがっており、かつては天王寺村の一部でした。)この俗謡は何を意味するのでしょうか。地下水面が深く、井戸からの水汲みが大変です、ということです。農耕用水はおろか、炊事・洗濯に必要な生活用水までままならない地だ、とも解されます。近代的な上水道が普及する明治末期まで、阿倍野は本格的に人の住める土地ではなかったのでしょう。この様な事情から、阿倍野の開発が随分と遅れることになった、と理解するのが相応しいと思います。

住吉区播磨町

播磨町や阪南町の造りは、道路が直角に交わり同じ規模の長屋が建ち並ぶ所であったと書きましたが、その中にも、門構えの有る立派な「お屋敷」が散在していました。特に、播磨町には「お屋敷」が結構あり、夏ともなれば樹木の茂った前栽に忍び込んでセミ採りをして遊んだものです。また、住宅ばかりでなく畑なども残っており、トンボやチョウチョなどを採る、屋外での遊び場には事欠かない環境でした。
 ところで、「お屋敷」の中には、表札に氏名だけでなく住所も記してあるお宅がありました。小学校に入った頃、知ったのですが、「住吉区播磨町・・・」と表示した表札があったのです。その事を不思議に思い、母親に尋ねましたら、母親は「昔、播磨町は住吉区だったそうよ。のちに、住吉区が三つに分かれて阿倍野区と東住吉区が出来、その時、播磨町は阿倍野区になったらしいの」と、事も無げに言いました。子供心に、地名は簡単に変わるものなのかと、不思議に思った記憶があります。長じて、史書を繙く中で、住吉区の分区・阿倍野区の設置は1943(昭和18)年4月のことだと知りました。同年11月、私達は兵庫県尼崎市から現住地(播磨町)に転入して来ましたが、分区直後の転入でしたから、母親も分区のことを近所の人達から聞き知って、数年後、小学生になった私の問いにすっと答えてくれたのだろうかと、想像します。
 1956(昭和31)年2月下旬、高校入試の出願手続きに要する『住民票の写し』を交付して貰おうと、阿倍野区役所に一人で行きました。その時が区役所に行った最初です。
 木造2階建てのくすんだ色の建物でした。外は陽光が降り注ぎ早春の気配が充満していましたが、区役所の中はモウモウとしており奥の方がよく見えないほどでした。恐らく、タバコの煙のためか石炭ストーブの煙のせいであっただろうと、推測します。入学しました今宮高等学校には定時制過程も設置されていましたが、そこでは石炭ストーブで暖を取っていましたから、上記のようにストーブの煙を想像したりするのです。即ち、1950年代の大阪では石炭をそのまま燃やして暖房することがかなり在ったいうことでもあります。(因みに、府立高校では1960年代になって、ガスストーブに切り替えていったようです。その際に、全日制過程でも便乗して暖房を始めました。その頃は、私も教職に在りましたからよく覚えています。受益者負担は当然だと、事務職員がガス代の督促状を保護者に送ったので、苦情が殺到し対応に苦慮した記憶も鮮明に残っています。)
 先述した阿倍野区役所について、近所のお年寄りから「あれは元、住吉区役所だった」としばしば聞かされましたが、それは府立阿倍野高等学校の直ぐ南、現在、阪南中公園と呼ばれている小公園の地にありました。やがて、現在の地に移転しましたが、そこは元、地下鉄の車庫でした。

町の区画と長屋づくり

播磨町と阪南町の大部分は整然とした区画わりで町が形作られています。東西と南北にまっ直ぐな道が付いており、これらの直角に交叉する道に縁取られた町割りには、あまり大きさの違わない家が並んでいます。
 それらは、いわゆる、長屋なのですが、同じ造りの家が三軒とか4軒連なっています。が、よく見ますと、それらの三軒や四軒が全く同じ造りではありません。特に三軒長屋は、ほぼ例外なく端の一軒を一回り大きく造ってあります。四軒長屋の場合は同じ造りのこともあります。この事について、小学生の頃、近所のお年寄りに質問したことが有ります。「何故、三軒とも同じ形の家にせえへんのやろか」と。すると、教えて下さった答えは「三人揃って、写真撮るの嫌がるやろ、真ん中の人は早よう亡くなる言うて嫌がるやろ、あれと同じ考えや。真ん中の家は験が悪い言うて、住む人あらへんのや。そやから、端の一軒だけ少し形変えて建てて、三軒長屋と違う、ということにしてあるんや。」と言うことでした。世間では「家相の良い家」とか「験の悪い家」とか、家に纏わっていろいろと縁起担ぎを話題にします。ところが、家の造りにこだわる事には「単なる縁起担ぎだ」と言って切り捨てることの出来ない、ある種の合理性が有るような気もします。否、私の単なる推量ではなくて厳然として合理性が存在し、それらの集積の上に町屋が造られているのではないだろうか、と思うのです。こうした辺り、是非、ご専門の方々にお教えいただきたいとも思っています。
 幼少の頃、日本中の町は全て播磨町や阪南町の様な造りになっているものと思っていました。ところが、小学校の高学年になった頃、長居辺りまで自転車で遊びに出かけて古い集落に迷い込み、自身の住まう播磨町の佇まいとは随分と違うなあ、と気づき始めました。道がT字型やL字型に連なったり、或いは曲がっていたりして、方角も見失いがちになりました。また、この様に古くから開けた集落の家屋の中には長屋門を構え、城郭を想わせるような母屋を持ち、屋敷には樹齢100年を越す楠などが森のように繁っている家もありました。
 この様な町は、当然のことですが、余所者が入って行くと道に迷うこともあり、不便な作りになっているな、と思うことが多いです。ですが、実はこの様に複雑に出来ている町こそかつて庶民が知恵を出し合って造った、ごく普通の町でした。一方、播磨町や阪南町のように整然とした区画割りの町は明治以降の近代的な都市計画に依って出現したのです。この事は、長じて郷土史の書物を読んで知ったことですが、更にもう少し詳しく言いますと、先ず、阪南町の北半分ほどの地域を対象に、1924(大正13)年、都市計画法による日本で最初の土地区画整理組合が設立され、1931(昭和6)年に解散するまでに約130ヘクタールが整理され、町割りを現在の姿に一新しました。引き続き、桃ヶ池、田辺、播磨などの区画整理が推進されていきました。このように阿倍野区の土地区画整理事業は日本の近代的な都市計画の第一号として実施されたそうです。(古代の平城京などの都城や明治時代に原野を開発した北海道の札幌のような都市とは異なった発展過程を辿った「都市計画」という意味です。)

ムッシュムシパン

菅さん、小山さん、幸家さん、の投稿より
『掲示板でも話題になっている、王子商店街の蒸しパン専門店「ムッシュムシパン」が、オープンしました。
渡辺さんのスタンスとその専門知識、半端じゃないです。全てホームページのご自身のブログの中で詳しく披露されています。またお店では、ほうれん草蒸しパンとういうのにも挑戦されるそうです。これからが楽しみです。
最近、王子商店街が変わってきているようです。こだわりの店が点在しはじめて、阿倍野に住むのがさらに楽しみになりました。若い人が店を始めるというのは、少し驚きでもあります。』