第8話 100人乗りのバス

 前回の「青空地下鉄」に関連した話題で、市バスの事を書きます。
小学校の低学年の頃(1940年代の末期)、遠方に出かける際の交通手段は専ら市バスでした。ディーゼルエンジンで走行するバスの他に、木炭バスや電気バス(写真①)も運行されていて、炭俵を後部に積んで走った木炭バスのいかにも古めかしく且つ又ユーモラスな車体や電気バスの静かにノロノロと走行した弱々しい印象が記憶に残っています。
 電気バスについて、こんな記憶もあります。父親と播磨町から阿倍野橋に向かって乗車したのですが、途中、阿倍野筋3丁目あたりで走行不能になり、乗客全員が降ろされたのです。超満員でしたから、バッテリーが干上がったのでしょう。「阿倍野橋まで、まだ、だいぶあるぞ、運賃まけろ。」「しっかり、充電してこい。最初から、電気、ケチってるんだろう。」などと、大人たちは運転手や車掌に苦情を言いながらも、降車して阿倍野橋まで歩きました。バス車両が不足した時代でしたから、停留所で待っていても、やって来るバスが満員で、車掌が窓から顔を出し、「満員です、次に願います。」と言いつつ、停車すらしないまま奔る去る事もしばしばでした。
 そこで登場したのが、米軍払い下げのトラックやトレーラーを改造したバスでした。(写真②と③)②のトラック改造バスの後輪がダブルタイヤでいかにも頑丈そうであったのが記憶に残っていますが、乗りますとガタガタと振動が激しかった覚えもあります。更に、③のトレーラー改造バスは懐かしさがしきりです。私たちはこのバスを「100人乗りバス」と呼びました。トレーラーバスの運行の事を母親から教えて貰って、播磨町の交差点へわざわざ見に行きました。と言うのは、播磨町が終点でしたからUターンしていたのですが、トレーラーバスが大きい図体をソロリソロリと回転させる様は、子どもにとってかなり面白いことで、見物するに値する情景だったのです。しかも、当時、播磨町の交差点は三叉路でT字型でした。(即ち、播磨町から西へ、玉出方面への道路は未開通でした。)ですから、十字型の交差点に比べると回転が難しいだろうと思いながら見ていた記憶があります。もう一つ、面白いなと感じたのはトレーラーバスの運転室後部右側に取り付けられてある排気用の煙突(?)の存在でした。発車するときなど、思いっきり黒い煙を噴き上げる様は何処か蒸気機関車を連想させて力強く感じました。
当時、1940年代後半は、播磨町の交差点を米軍の自動車がよく通りました。浜寺公園や杉本町(市立大学)に米軍キャンプがあったからでしょうか。ジープやトラック、トレーラーなどが、数台で時には十数台で車列を組み昼間からライトを点け少量ですがサイレンを鳴らしながら往来しました。実は、その車列をも何度か見に行ったものですが、その度に、子供心にもアメリカは物資の豊かな国なんだな、と思いました。何もかも不足した、取り分けて食糧不足で飢えに苦しんでいた日々でしたから、米軍の重量感溢れる車列に感じ入ったのでしょう。あのトラックなどには、何を積んでいるのだろうか、多分、食物だろうな、等と他愛もないことをあれこれと想像していました。
ですから、米軍払い下げの改造バスに乗りますと、ガタガタと揺れて乗り心地が悪くても、特別仕様の頑強な乗り物に乗っている気分になり、先述の電気バスが貧弱に思えたのでした。
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バス①
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バス②
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バス③

第8話 100人乗りのバス」への1件のフィードバック

  1. 広瀬 和彦

    S20年生まれの八尾市の男性です
    後輪2軸の米軍払い下げバス。百人乗バス
    どちらも写真で見せていただき懐かしい限りです。 2軸のバスは阿部野橋〜近鉄八尾駅の路線バスにS30年頃まで使われていました。荷重の関係でしょうか、後の1軸はタイヤがダブルでなく左右1個でした。
    トレーラーバスが定期運行されていることは知りませんでした。幼稚園の時、貸切で動物園に行きました。客室前部が半円になっていて床が高く、太い煙突がボコボコ言いながら黒い煙を吐くのがよく見えました。
     私のサイトに市電の写真を載せています。
    よかったら見てください。

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