青空地下鉄

前々回、前回と水に関わる話を書きましたが、今回も水に関する話から始めます。小学校3,4年生の頃の記憶で、地下鉄・御堂筋線が完成する以前のこと、現在、西田辺駅のある辺りに長細い池が在りました。
20050323-ike.jpg
 周囲は大部分が住宅で、畑が少しあるだけでしたので、子供心に「何故、こんな所にため池があるのだろう」と不思議に思ったものでした。同じ年頃、トンボやチョウチョウを採りにしばしば播磨町2丁目から長居にかけて出かけましたが、そのあたりは見渡す限り田畑でしたから、大領池のような大きな池のあることは子ども心にも十分納得できましたが・・。写真の池の正体が、やがて、分かるのでした。
実は、この池は農業用のそれではなく、地下鉄工事が中断した所に水が貯まってできた池だったのです。この池の存在を知って間もなく、工事が再開されて、1952(昭和27)年10月5日、大阪市営地下鉄1号線の昭和町〜西田辺間が開通しました。それは6年生の秋のことで、翌春、卒業記念の「お別れ遠足」の際に初めて乗車したように記憶しています。担任の先生が、地下鉄の車両は鋼鉄製の「不燃車両」であると熱っぽく説明して下さったことを、今も鮮明に覚えています。南海上町線や国鉄・城東線(現在のJR・環状線)の電車の床・壁・窓枠などが木で出来ており、ガタガタ・ミシミシとそれはもうやかましい事でしたから、地下鉄の車両はガッチリしていて、とても頼もしく見えたものでした。
 西田辺に地下鉄がついた前の年(1951年)の春、横浜市の桜木町駅で国電の車両火災が発生、2両焼失、100余名の死者が出る大惨事がありました。骨組みの鉄骨を残して、すっかり焼けてしまった国鉄電車の写真を新聞で見て、大きな衝撃を受けました。私達は5年生になったばかりの頃で、ぼちぼち社会の出来事に関心を持ち始めていた年頃でしたから、授業前の教室で話題になり、騒然とした雰囲気になりました。担任の先生が更に詳しく解説して下さり、木造の車両であったこと、窓が人の出入りができる程大きくは開かない構造になっていたこと(意味は分かりませんでしたが、六三型の国電と呼ばれたことも覚えています)など、話題は尽きない感じで一時期、少年達の心を捉えていたのでした。上記の地下鉄車両の説明もこうした事件の延長上の話だったと思います。
 ところで、着工は1941(昭和16)年11月17日だったそうですから、推測しますと、10年近い工事中断だったのでしょうが、状況の面白さは、それだけではなかったのです。と言いますのは、開通したものの工事は完了していなかったのです。オープンカット方式で工事を進めたのですが、一部に天井の無い、いわば切り通しの様なままになっており、私達は「青空地下鉄」と呼びました。
20050323-tetudo.jpg
 昭和中学校への登校途中、フタのない地下鉄の際を通るのですが、金網越しに石を投げてはいけない、と生徒指導部の先生方が生徒集会の折などによく注意なさいました。投げた経験も投げているのを見たことも無かったですが、写真②にあるのり面下部の溝などを見ると、こぶし大の石がたくさんあったのを覚えています。
(因みに、天王寺〜昭和町間は1951年12月20日に開通。なお、当時は御堂筋線という呼称はありませんで、1号線と呼んでいました。確か、万国博のあった70年以降、名付けられたように記憶しています。市営の路面電車の廃止と地下鉄の大幅な延伸が同時に行われた時期でした。)