阿倍野の開発

整然とした区画割りと長屋の並ぶ町(前々回)、住吉区を三つに分区して阿倍野区の誕生(前回)と話を進めて来ました。大正末期から昭和の初期に都市計画法に拠って開発された近代的な計画都市であるとも述べました。
 では、開発以前の阿倍野はどんな様子であったのか、上記の時期まで開発されなかったのは何故か、今回はこれらのテーマで書いてみます。(03/11/23の「オープン長屋」の折に話しました内容の要約でもありますが。)
明治18年発行の地形図(五万分の一)を見ますと、阿倍野の地は標高10〜15mの丘陵地で近くに川が無く池が散在する高燥地であることが分かります。更に、土地利用を見ますと田畑特に田は少ししか見当りません。とりわけ、中央を南北に走る上町台地は全くと言って良いほど活用されておりません。(この台地の尾根伝いに旧熊野街道が設けられていたのですが。)だからと言って、そこは山間地のように森林で覆われていたのでもありません。言わば、雑木林や雑草地であった、と解すべきでしょう。明治当初の阿倍野(勿論、大阪市へは未編入)の住居の様子を調べますと下記の通りでした。
天王寺村字阿倍野(今の阿倍野元町)65戸、猿山新田(今の西田辺町で田辺村の分村)28戸が主な集落で、他には住吉村・桑津村など周辺の村の一部の集落が阿倍野区域内に在った事になります。それほど人口過疎地であった阿倍野ですが、明治30年の大阪馬車鉄道の開通(四天王寺〜住吉大社間・明治43年に電化・現在の上町線の前身)以後、急速に人口増加していき、大正13年には阿倍野村は人口58000人を数え、当時、日本一の村になって、やがて翌14年、大阪市に編入されました。が、しかし、その時点でも区域の中央部(今の阪南町・播磨町など)には殆ど集落が無く、前々回に述べました「大正末期の区画割り」を待つのです。更に、大正14年発行の地形図を見ますと、阿倍野区のほぼ中央、広々と拡がる畑地の真中に桃山中学(今の桃山学院高等学校の前身)が記されています。恐らくそこからは四天王寺の五重塔も見えたことでしょう。昭和27年、私は小学校6年生でしたが、地下鉄が西田辺まで開通しましたが、駅前から大阪城の天守閣が見えていましたから。
 では、何故、これほどまで開発が遅れたのでしょうか。周辺には、平野・桑津・田辺・住吉など古くから、それも大規模な集落が発達していたのにも拘わらず、です。
『娘やるなよ、天王寺国分、夏は深井戸に 夜水汲む』こんな俗謡が残っているそうです。(因みに、上記の「天王寺国分」の「国分」とはJR寺田町駅周辺の地名で、天王寺区と生野区にまたがっており、かつては天王寺村の一部でした。)この俗謡は何を意味するのでしょうか。地下水面が深く、井戸からの水汲みが大変です、ということです。農耕用水はおろか、炊事・洗濯に必要な生活用水までままならない地だ、とも解されます。近代的な上水道が普及する明治末期まで、阿倍野は本格的に人の住める土地ではなかったのでしょう。この様な事情から、阿倍野の開発が随分と遅れることになった、と理解するのが相応しいと思います。