町の区画と長屋づくり

播磨町と阪南町の大部分は整然とした区画わりで町が形作られています。東西と南北にまっ直ぐな道が付いており、これらの直角に交叉する道に縁取られた町割りには、あまり大きさの違わない家が並んでいます。
 それらは、いわゆる、長屋なのですが、同じ造りの家が三軒とか4軒連なっています。が、よく見ますと、それらの三軒や四軒が全く同じ造りではありません。特に三軒長屋は、ほぼ例外なく端の一軒を一回り大きく造ってあります。四軒長屋の場合は同じ造りのこともあります。この事について、小学生の頃、近所のお年寄りに質問したことが有ります。「何故、三軒とも同じ形の家にせえへんのやろか」と。すると、教えて下さった答えは「三人揃って、写真撮るの嫌がるやろ、真ん中の人は早よう亡くなる言うて嫌がるやろ、あれと同じ考えや。真ん中の家は験が悪い言うて、住む人あらへんのや。そやから、端の一軒だけ少し形変えて建てて、三軒長屋と違う、ということにしてあるんや。」と言うことでした。世間では「家相の良い家」とか「験の悪い家」とか、家に纏わっていろいろと縁起担ぎを話題にします。ところが、家の造りにこだわる事には「単なる縁起担ぎだ」と言って切り捨てることの出来ない、ある種の合理性が有るような気もします。否、私の単なる推量ではなくて厳然として合理性が存在し、それらの集積の上に町屋が造られているのではないだろうか、と思うのです。こうした辺り、是非、ご専門の方々にお教えいただきたいとも思っています。
 幼少の頃、日本中の町は全て播磨町や阪南町の様な造りになっているものと思っていました。ところが、小学校の高学年になった頃、長居辺りまで自転車で遊びに出かけて古い集落に迷い込み、自身の住まう播磨町の佇まいとは随分と違うなあ、と気づき始めました。道がT字型やL字型に連なったり、或いは曲がっていたりして、方角も見失いがちになりました。また、この様に古くから開けた集落の家屋の中には長屋門を構え、城郭を想わせるような母屋を持ち、屋敷には樹齢100年を越す楠などが森のように繁っている家もありました。
 この様な町は、当然のことですが、余所者が入って行くと道に迷うこともあり、不便な作りになっているな、と思うことが多いです。ですが、実はこの様に複雑に出来ている町こそかつて庶民が知恵を出し合って造った、ごく普通の町でした。一方、播磨町や阪南町のように整然とした区画割りの町は明治以降の近代的な都市計画に依って出現したのです。この事は、長じて郷土史の書物を読んで知ったことですが、更にもう少し詳しく言いますと、先ず、阪南町の北半分ほどの地域を対象に、1924(大正13)年、都市計画法による日本で最初の土地区画整理組合が設立され、1931(昭和6)年に解散するまでに約130ヘクタールが整理され、町割りを現在の姿に一新しました。引き続き、桃ヶ池、田辺、播磨などの区画整理が推進されていきました。このように阿倍野区の土地区画整理事業は日本の近代的な都市計画の第一号として実施されたそうです。(古代の平城京などの都城や明治時代に原野を開発した北海道の札幌のような都市とは異なった発展過程を辿った「都市計画」という意味です。)

町の区画と長屋づくり」への1件のフィードバック

  1. かわ

    数年前まで住んでいた播磨町あの他にない長屋風景懐かしく思います 私の近くは4軒長屋多くは前庭付き門構えで両端の家は少し間口広く真ん中の2軒は間口3.6Mでした

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