水難の恐れ

小学校4年生の7月半ばの事であったと記憶しています。たぶん短縮授業中であったのでしょう。給食後、直ぐに学校から帰宅し、友達数人と誘い合って校区の南、町名で言いますと播磨町3丁目から阪南町7丁目・西長居辺りへトンボ取りに出かけました。と言うよりも、われわれ悪童どもは何か面白いことはないか、悪戯をして大人を困らせてやろう、といった雰囲気で出かけたのです。「ギャングエイジ」の最中でしたから・・。
当時、柴谷線と呼び合っていました南港通りを渡り(勿論、信号などは有りません)、播磨町西2丁目を歩いていた時でした。仲間中で一番のワルのY君が、とつぜん、「お屋敷」の呼び鈴を押して駆け出したのです。それを察知するとわれわれ仲間もいっせいに蜘蛛の子を散らすように逃げました。ところが、事前の打ち合わせをしていなかったものですから、仲間は散り散りになってしまいました。その結果、どうやら私一人がはぐれたようでした。
さて、どうしたものかと思案した時、数日前に仲間と行った臨南寺のそばの池を思い出しました。それは阪和線に沿った長細い池でとても澄んだ水が気に入ったのでした。現在の球技場の辺りに在ったのです。池の周りには人家などは見当たらず、田畑も無くて雑草が生い茂っていました。時折、横を通る電車の警笛に吃驚させられながら、池の周りを何回も回って澄んだ水面を覗き込んで過ごしました。その池を独り占め出来たような気分になって帰途に就いたのです。
 ところが、帰宅してビックリ。家の前は10人ほどの人だかりです。私に駆け寄ってきて「無事で良かったね」と涙ぐむ近所の小母さんまでおられました。そして、両親から大目玉を食らいました。例のワルのY君らが再集合した後、私の家に来て「森本君の姿が見えなくなった」と報告したものですから、手分けして探し回ったのでした。当時の阿倍野区には米軍の空襲に備えた防火用水池や田畑用の野井戸・肥溜めがたくさん在り、そこで死亡する幼児・少年がたくさんいたからです。親たちは交通事故よりも水難の方を恐れていたのです。先述の柴谷線では5,6歳上の人達がキャッチボールをしていた記憶がありますが、それほどに自動車の少ない時代で、交通事故は極めて稀なことでした。
 かつて、阪和線に沿って南北2キロほどもあるひと続きの長細い池が在ったようです。北端は阪和線と阪神高速・松原線のクロスする辺り、南の端は先程お話しした池で、臨南寺境内の北辺りです。小学生頃の記憶でも、昭和中学校の在る所・長池小学校東側の野球場・シャープ本社ビル東側の小公園など、全てが池でした。それ以外にも池が多くて、阪南中学校も「今池」を埋め立てて建設されましたし、育徳園保育所の旧園舎の西側にも池が在りました。府立病院の東側には大領池と呼ばれた大きな二つの池が在りました。
 と言うわけで、親たちは水難を恐れたのでした。明治18年の付近の地形図を付けておきますのでよくご覧下さい。私の少年時代は付近の地形に関して言いますと明治の中頃と大差がなかったようです。
 因みに、「呼び鈴」はヨビリンと言いますが、当時、これを設置している家は1割り以下であって大きな邸宅に限られていたと思います。その珍しさが先述の様な悪戯のきっかけだったとも思います。家人が出てこられてキョロキョロと来客を捜す様を陰に隠れて見て喜ぶのです。時には囃して逃げました。インターホン付きの呼び鈴では出来ない、出来ても面白くない悪戯です。門扉を開けて家人が姿を現すまでかなり時間が掛かる、それだけ大人に手間をかけさせるから面白いので、ボタンを押すや否や「どちらさまですか」と応答されては悪戯のやり甲斐がないでしょう。又、チャイムなどというハイカラな言葉の登場と共に呼び鈴は急速に普及していきました。経済が高度成長期に入ったのですが、それに連れて阿倍野区南部の牧歌的な景観も急速に変化していきました。
20050323-Scan11.jpg
明治18年の地形図。
右下の黒く細長い部分が阪和線沿いの池。

水難の恐れ」への1件のフィードバック

  1. かわ

    阪南町6丁目阪南公設市場の東方あたり 南北の道に沿って水路があり周りは畑でした 小学校校外授業で畑の観察でよく行きました
    阪南小学校の南にはどこかの官舎らしくおばけ屋敷がありました 木立の中の不気味な木造洋館でした

コメントは停止中です。