播磨町の由来

前回(「阿倍野の開発」)の中で、阿倍野は用水の不足が原因で近代になるまであまり開発されることもなかった、特に区内の中央、上町台地が北から南へゆっくりと傾斜を持ちつつ横たわる地域は雑木林であったのではないか、また、それが原因となって近代になるまで開発が遅れたのではないか、との意味のことを記しました。だが、そんな地域でも地名が付けられていますし、その地名も歴史を持っているはずです。今回は、播磨町の由来に関わる話を中心に書いてみます。
 そもそも阿倍野の地は、近在に平野郷町や住吉村など大きな集落が古くから拓け、上町台地の尾根筋には熊野街道が設けられていましたし、更に権力の中枢部があった奈良・京都にも比較的近い地でもあったのですから、地理的に価値の高い場所でした。ですが、用水不足の雑木林・雑草地ともなると開発は考慮されず、むしろ悲惨な事件の場所として歴史上に登場することもあったようです。即ち、近くの都で権力闘争が行われ、その果てに武力と武力がぶつかり合う場所、即ち、戦場として選ばれたのです。
 平治の乱(1159年)では、源義朝挙兵の報を受けて熊野街道を京へ取って返していた平清盛の軍勢を源義朝の子息・悪源太義平が阿倍野で迎撃しようとしました。
 更にその後、院政期の末(永万年間)には、四天王寺と住吉社が阿倍野の地を奪い合って争ったりしました。
 最も大きな紛争は南北朝の頃に有り、阿倍野は何度も決戦場となりました。例えば、北朝方の赤松勢は敗走の際、慌てて死者を葬り土饅頭を残して去りました。地元民は、後日、赤松勢の本拠地である播磨に因み播磨塚と呼びました。これが播磨町の地名の由来です。
 残っている文書の少ない大和政権時代、更に、それ以前の古墳時代にも阿倍野は権力闘争の地・争いの地であっただろうと推測出来ます。阿倍野は物部氏・大伴氏らと共に有力氏族であった阿倍氏の勢力地であって、その氏寺が今の阿倍野区松崎町にあった形跡があるのです。寺の礎石などが都市開発で掘り返されて大部分は散逸しましたが、一部が天下茶屋公園に保存されています。そもそも、阿倍野とは「阿倍氏」に由来するとの説が有力なのです。
 因みに、アベノの表記には「阿倍野」(区名や王子神社に)の他に「安倍野」(安倍晴明神社に)「阿部野」(近鉄阿部野橋駅や阿部野神社に)が使われています。  
 ところで、奈良県の當麻町や御所市或いは大阪府の太子町や河南町に住まいする友人の中に郵便物の宛名書きを「阿部野区」と書いてくる人が結構多いです。これは近鉄の阿部野橋駅の表示が記憶にあるからでしょうか。