プール (「水難の恐れ」 続編)

1950年頃(昭和25年頃)の大阪では、幼児や児童にとって交通事故よりも水難の方が多かった、と前回書きました。その頃、耳にした水難事故を1件書きます。
 それは大高のプールでの溺死でした。大高とは旧制大阪高等学校(国立)の略称で、近所では1950年に大阪大学の教養部に統合された後でも、そのように呼ぶ人達が多かったのです。現在の市バスの停留所「阪南団地前」を「阪大南校前」と呼んでいた記憶もあります。
その事故は、5年生の夏のことでした。同級生・N君の弟さん(小学1年生)が数人の友達と共に大高に忍び込んで遊んでいてプールで溺れ死んだのです。私たちの学級担任のU先生は状況を詳しく説明した後、決して大高に入ってはいけない、と注意されました。更にN君のお家が母子家庭であること、事故の報せを聞いて駆けつけたお母さんが悲しみの余り狂乱状態になられたとも話して下さったのです。この事故のずっと以前から、両親も大高には深いプールなどがあって危険だから近づかないようにと注意して呉れていました。
 プールと言いますと、私たちが通学していた阪南小学校にプールがありました。当時、プールのある学校は少なかったのですが、このことについても、少し書きましょう。これも5年生の時に聞いた話です。隣のクラスの先生が、ある日の水泳授業で、「本校のプールは小さいな、英語のプールと言う言葉には『水たまり』という意味もあるらしいよ。うちのプールはまるで水たまりだ。」と冗談を言われました。5㍍×20㍍だったように記憶しています。そこへ1クラス50名×5クラスの1学年全員が一度の入るのですから、正に「芋の子を洗う」状態でした。更に、学校のプールは防火用水を目的に造った、との話しも後日、近所の老人から聞いた記憶があります。でも、建造理由が何であれ、周りの小・中学校にはプールが無かっただけに阪小の私達には自慢の種でした。(プールが珍しかっただけに、大高に忍び込んで遊ぶ子どもが絶えなかったのかも知れません。大人も忍び込んでプールで泳いだとの話しも聞きましたから。)
 ところで、プールの他に校区には数カ所、空襲対策の防火用水池がありました。ここにも決して近づかないようにと口を酸っぱくして先生方や親から注意されたものです。この防火用水池は上から見ると25坪ほどの正方形で、池底は四角錐を逆さまにしたような形をしており45度ほどの傾斜になっており、しかも池の周囲には「取っ手」のような支えが一切無く、大人でも滑り落ちると抜け出すのが難しいだろうと子ども心にも思いました。実は怖い物見たさに2,3度覗きに行ったことがあるのです。半分ほどに減った池水にはたくさん水草が繁茂しており、私たちの足音を聞いてカエルが次々と飛び込んで逃げました。
小学校のプールや防火用水池が何故造られたのでしょうか。勿論、空襲対策なのでしょうが、他の地域はどうだったのでしょうか、阿倍野区のようにたくさん造られたのでしょうか。このことで思い出すことがあります。昭和26年に大阪市水道局の住吉配水場が出来るまでは、上水道の水の出具合がとても悪かったことです。東淀川区の柴島配水場から遠く離れておりしかも上町台地に造られた住宅地で水圧が低かったからでしょう。こうしたことが、プールや防火用水池の設置につながっていたのではないかと思うのです。
(大阪高等学校や住吉配水上についても、後日、稿を改めて書きたいと思っています。)